1959年アメリカグランプリ (1959 United States Grand Prix) は、1959年のF1世界選手権第9戦(最終戦)として、1959年12月12日にセブリング・インターナショナル・レースウェイで開催された。
2回目(1908年から1916年にかけて断続的に開催されたアメリカン・グランド・プライズ(American Grand Prize)を含めると9回目)のアメリカグランプリは42周、351kmで行われた。アメリカグランプリがF1世界選手権に組み込まれたのは当レースが最初で、セブリングでは唯一のF1世界選手権レースの開催である。
レース概要
前戦イタリアGPから3ヶ月のインターバルを経て、最終戦の当レースを迎えた。ドライバーズチャンピオン争いはジャック・ブラバム、スターリング・モス、トニー・ブルックスの3人に絞られた。3人のチャンピオン獲得の条件は以下の通りである。
- ブラバム(31点)
- 2位以上で、モスが3位以下
- 3位でファステストラップを獲得して、モスが4位以下
- ブルックスが2位以下で、モスが3位以下
- モス(25.5点)
- 優勝
- 2位でブラバムが3位以下、かつブルックスが優勝とファステストラップの両方を獲得しない
- 2位でファステストラップを獲得して、ブラバムが3位以下
- ブルックス(23点)
- 優勝とファステストラップを獲得して、ブラバムが3位以下
- 優勝して、モスが2位でファステストラップを獲得しないか3位以下、ブラバムが3位以下
ポールポジションはロブ・ウォーカー・レーシングチームのクーパー・T51をドライブするモスが獲得し、クーパー・ワークスのブラバムが2位、BRMの欠場によりプライベーターのクーパーをドライブするハリー・シェルが3位と、クーパー勢がフロントローを独占した。フロントエンジンのフェラーリは2-3列目が精一杯で、ブルックスは2列目の4番手からスタートする。
スタート直後にブルックスはチームメイトのヴォルフガング・フォン・トリップスに追突され、ピットインを強いられて早々に優勝争いから脱落した。モスも6周目にリタイアして、この年もチャンピオン獲得には至らなかった。これでブラバムは有利な立場で首位を走行し続けたが、最終ラップで燃料切れとなってしまう。ブラバムはマシンを押して4位でフィニッシュし、ブルックスが3位に終わったためブラバムのチャンピオンが決定した。レースを制したのはブラバムのチームメイトのブルース・マクラーレンで、22歳104日での優勝はF1最年少記録である。2003年ハンガリーGPでフェルナンド・アロンソ(当時22歳26日)が塗り替えるまで、マクラーレンは44年間に渡って最年少記録を保持した。
チャンピオン争いが繰り広げられたレースだったが、観客はたった2万人にすぎなかった。
当レースのみの出走となった珍しいマシンもあった。本年のインディ500を制したロジャー・ワードがカーティス・クラフトのダートコース用ミジェットカー(オッフェンハウザーの1.75L直列4気筒エンジンをフロントに搭載)で出走したが、予選で首位モスから43秒差の最下位と全く勝負にならなかった。かつてマセラティでデザイナーを務めていたバレリオ・コロッティが創設したストゥディオ・テクニカ・メッカニカでマセラティ・250Fの発展型「テック=メック」を制作し、カモラーディ・インターナショナルからフリッツ・ドーリーが出走した。1957年に撤退したコンノートで未完成のまま眠っていた「タイプC」(エンジンはタイプBと同じアルタ直列4気筒)も当レースのみの出走だった(ドライバーはボブ・セッド)。
エントリーリスト
- 追記
- ^1 - エントリーしたが出場せず
結果
予選
決勝
- 追記
- ^1 - ファステストラップの1点を含む
ランキング
- 注: トップ5のみ表示。ベスト5戦のみがカウントされる。ポイントは有効ポイント、括弧内は総獲得ポイント。
脚注
参照文献
- 林信次『F1全史 1956-1960』ニューズ出版、1999年。ISBN 4-938495-27-9。
外部リンク
- STATS F1




