于 宝軒(う ほうけん)は、中華民国の政治家。北京政府、安徽派に属し、後に中華民国維新政府、南京国民政府(汪兆銘政権)の要人となった。字は子昂、志昂。
事績
幼い頃は四川省で地方官に任ぜられた父の下で暮らす。清末の監生(国子監の学生)で、後に日本に留学した。1900年(光緒26年)に帰国し、清朝の巡警部、民政部、憲法修正館などで各職を歴任している。
1912年(民国元年)8月24日、于宝軒は内務部僉事に任命される。また同年には北京政府の内務部警政司科長となり、あわせて参議院議員候補に選出された。1913年(民国2年)12月30日、内務部民治司司長に任命されている。1914年(民国3年)中には礼制館第一類編纂、立法院事務局評議も兼任している。1915年(民国4年)7月3日、中大夫の地位を授与された。
1916年(民国5年)10月29日に内務部(民治)司長を辞任し、回復した国会で参議院議員に任ぜられる。再び国会が解散された1917年(民国6年)7月26日に交通部秘書となり、同年12月5日、内務部次長に昇進して、内務総長の銭能訓を補佐することになった。翌1918年(民国7年)2月27日からは籌備国会事務局委員長も兼任し、安福国会における選挙事務を担当することになっている。1919年(民国8年)6月13日、龔心湛臨時内閣で一時的に内務総長を代理したが、わずか3日後の16日に内務次長等の各職も含めて辞任した。
1920年(民国9年)8月21日、于宝軒は経済調査局副総裁に任命され、1922年(民国11年)7月5日には同局総裁代行を務めた。同年12月6日、政治善後討論委員会委員に任命され、翌1923年(民国12年)9月11日には財政整理委員会委員となっている。この他、北京古学院哲理研究会研究員等も歴任した。
王克敏らによる中華民国臨時政府創設に于宝軒も参与し、1938年(民国27年)3月12日、最高法院(院長:董康)書記官長に任命された。しかし、程なくして梁鴻志らによる中華民国維新政府創設にも于は参加し、同年7月26日、維新政府交通部(部長:江洪杰)次長に任命されている。1941年(民国30年)5月、汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府において、高等考試典試委員会監試委員を務めた。これ以降の于宝軒の消息は不明である。
脚注
著作
- 『皇朝蓄艾文編 80巻』1903年
- 『整理江蘇財政案』出版年不明
参考文献
- Who's Who in China 3rd ed. (中國名人錄 第三版). The China Weekly Review (Shanghai) (上海密勒氏評論報). (1925)中國名人錄 第三版)&rft.date=1925&rft.pub=The China Weekly Review (Shanghai) (上海密勒氏評論報)&rfr_id=info:sid/ja.wikipedia.org:于宝軒">
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。




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